猫イベント「ニャンフェス4」のため、猫グッズを手作り中
猫イベント「ニャンフェス4」、ついに次の日曜(10/23)となりました。猫友さんは裁縫が得意な方なので、布小物(ポーチやミニバッグ、エプロン等)を作っているそうですが、私はあまり針仕事が得意ではないので、粘土細工でストラップやブローチを作成中です。本業は紙モノのデザイナーなので、何か紙(レターセットや一筆箋にシール等)で作ろうと思っていたのですが、ついぞ時間がなくて今回は無理そうです。次回また頑張ります。。。
あとは母作の編み物(猫耳のついた手袋つくってるらしい)とかに期待しよう。
道具はこんな感じ。本格的なものは持っていないので、手持ちのものと急遽楽天や100均で揃えたものがほとんどですが。工夫すればなんとかできるもんだなあ。
猫ストラップができました! 首に鈴をつけています。白猫のほかにハチワレ、三毛猫もいます。
「自由に好きなモノ作っていい」環境を大人になっても作りたい
物心ついたときから私の人生のテーマは「自由、自立と自律とは何か?」なのですが、今回ニャンフェスのためにものづくりをしたことで、このテーマへのヒントをもらったような気がしました。
私は粘土をこねくってると不思議と癒されます。こういうの、無になるって言うんでしょうか。なんだか禅みたいです。学生の頃、美術の授業が好きでよく展覧会に出してもらったりしていました。何が好きかって「自由」な教科ですもん。練習とか宿題とかつらいことがないし!(課題は与えられるから完全自由ではないのでしょうけど)先生が「自由に作っていいよ」って言ってくれるなんて、子供にとっては勉強というより遊びの時間みたいでワクワクしました。そりゃ楽しいですよね。
でもそんな風に「自由に好きなモノ作っていいよ」なんて、大人になったら言われなくなってしまうなんて知らなかったな…。(もっと早く教えてくれー。笑)
大人になってからしていることの窮屈感の正体
「好きにつくる」から、「誰かの言うとおりにつくる」になった途端、同じようなことをしても楽しめないのはなぜでしょう。そもそも「お金をもらっている」ということで、「純粋に楽しむためにやっている」のと同じ土俵で比べること自体違うのかもしれませんが、「本当に美術が好きだったあの頃、心から楽しんで何かを作っていたときの自分」とはもう、別の人間になってしまったのかなという気さえします。
妙に肩肘張っているからなんでしょうか。私は「お客さんに好かれようと愛想で笑顔をしたり、電話でワントーンあげて話す自分に、自分でどうも違和感がある」ようで…程度の差こそあれ皆自然とやっていることなので、相手は特に違和感を感じていないでしょうし、そこにフォーカスするのは変なのかもしれませんが…。
生活がかかっているだけに「お金をもらうために媚びたり下手に出たりしている感じ」がして、自分がさもしいように感じてしまうのかもしれません。(もちろんお金を稼がないと食べていかれないし、お客さんに愛想もつかえないのでは社会人としてやっていけないので、特に何も悪いことはしていないのですが…)
いつか「本当の自由の向こう側」に立った時見えるもの
イベントだってお金を出して買ってくださる方がいる限り、それは「お客様」だし締め切りだってあります。でもなぜか、少し肩の力を抜いて作れるような気がして、ふと忘れてしまっていた”あの頃”の感覚を思い出したのです。
どんなものづくりであろうとも誰かの「役に立ち」、誰かに「喜ばれるためにやっている」のだと思います。その意味においては、本当は「お金をもらっている仕事」も、「趣味でしていること」も本質的には同じところに行き着くのだろうと思います。
自分が好きなように作ったものを「いいね!」と思った人に買っていただける。それって何て幸せなことなんでしょう! いつか本業の仕事もそんな風に思えるところまで、いけたらいいなと思っています。
パンナさんは私が何か作業に夢中になっていると、ニャーニャー言ってものすごい勢いでジャマしてくるのですが、こちらも無視を強行しているとついにふて寝。ただ目が合って見つかるとすぐ起き上がって走ってきますのでそーっとおそるおそる写真を撮る…でも結局見つかりますが。「お!?今度こそ遊ぶにゃー!!!」って感じですごいパワフルで強引です。(なのになぜか、リビングでくつろいでいるとジャマしてこない…なんなんでしょう。)